騒音書簡1-37

2025年3月31日

鈴木へ、

こう呼びかけてみると、僕は確実に「あのころ」に連れ戻される。Nの部屋で『ミンガス』を聞いたころ、いま拉致られてはマズイと彼に居候させてもらい──なにしろまだ「Y」(KPの言い草だ)批判をやめるつもりはなかったし──、自分では逃亡生活も緊張感があって悪くないぐらいに思っていたものの、やはりストレスは相当あったようで、中身は覚えていないがなにか悪夢を見て、夜中に大声をあげNを起こしてしまった「あのころ」。Nの口から「鈴木」という名前を聞いたころ。あのころ、音楽は僕にとって、政治事──色事のようなものだ──に振り回されずに自分を担保する唯一の手段であったような気がする。なにしろ、そこには幼年期以来の、まさに僕だけの生の連続性が詰まっていたので。あるとき誰かのなにかの「音」が自分に響く/響かないは、長い「経験」の結果でしかない。どんな「音」も、そこまで前進してきた「経験」の、一瞬で果たされる全体化だ。音楽は「経験」に対し直角に交わり、それぞれの「いま」から僕を離脱させる。特定の「むかし」を想起させるわけではないのだけれど、だからこそ音楽は隠れ家になる。そして音楽について書くことは、前進する「経験」に開いたこの破れ目から、どこか「よそ」へと思考なのか想像力なのか反省なのかを歩かせる。担保された連続性に、別の途をかろうじて開きはじめる。

それが老いた印であるのかもしれないが、この書簡を続けていると、ときおり、これまでならまったく聴く気──正確には聴き「直す」気──になれなかった種類の「音」が、『ミンガス』なんかよりもっと昔の、ほとんど具体的記憶など残っていない幼年期の「感覚」をともなって、僕を誘う。たとえば、YouTubeが勝手にお勧めにあげてくる、街角で弾く子どものバイオリン。彼らはたいてい所謂「街角ピアノ」に突然(?)参加してくる。東洋人が多いせいか──黒人やアラブ人は見たことがない──、その上手さは感嘆と同時に「痛々しさ」を呼び込まずにいない。どうしても、ピアノに明け暮れていた「あのころ」の自分に重ね合わせてしまう。ショパンやリストやベートーヴェンを、これくらい上手に弾きたかったよな、と思ってしまう。しかしそのための規律訓練を同時に思い出すと、過去の自分に対しては「馬鹿馬鹿しい」、その子どもたちに対しては「可哀想」という気分にもすぐになる。特に東洋人の子どもに対しては、訓練への従順さが「腹立たしく」もなってくる。きみ、どうしてそのバイオリンで白人ピアノ伴奏者の頭をかち割ってやらないのだ、それこそきみの演奏のフィナーレにふさわしかろう。いかにも気持ちよさげな子どもの超絶技巧には、「哀れ」さえ覚える。きみは名誉白人になりたいのかい? そして僕は、幼年期の自分に沈殿したコンプレックス──あの子どもたちのようになれなかったことへの──を振り払うためであるかのように、大人の音楽家による似た曲のCDに手を伸ばす。そうすると、自分の肥えた耳に安心する。あ、オレはちゃんと「鑑賞」できている。なんだかんだ言っても、パブロ・カザルスよりヨーヨー・マのほうがいいじゃん、けどカザルスのほうがバッハの「歴史性」に忠実だ、とかね。そして思う、「音楽通」による「鑑賞案内」のなんと「哀れ」なことよ。規律訓練の内面化、甚だし。きみたちは音楽が「場」とともにあることが分かっていない。名盤で聴くよりも、「音」が不意に聞こえてくる街角のほうが、たとえクラシック音楽であってさえ、純粋な「感動」を呼ぶことを忘れたか。僕がもっとも感動したオペラのアリアは、ミラノのスカラ座のまえで音楽学生──たぶん──が練習と投げ銭稼ぎと度胸づけのために歌う「夜の女王のアリア」であった。観光客向けの「音楽」。

しかし、いや、だからなのか、昨今流行りであるらしい「初音ミク」音源には、ほとんど「危機感」を覚える。「曽根崎心中」には「おお!」と思ったが、総じて、「場」による限定をはなから拒否することで普遍性を得ている電子的技巧──超絶技巧さえもはや「超絶」ではない──が、まずは「悲しい」。そんな簡単に規律訓練を突破してしまっては、きみたちはどんどん弱くなってしまうぞ、それでいいのか? どんどん「優しい世界」が欲しくなり、どんどん闘う気力が失せ──なにせパソコンを開けばよいのだから──、「場」から得られる「感動」に鈍感になるぞ。きみたちにはもう『ミンガス』はもうなにも言わんだろう。バルバラの生声はもっと届かないだろう。もちん、僕にとっても、あれは逃げ回っていた「あのころ」の「音」にすぎなかったのだが。コスプレ衣装と素顔のあいだに開いたのと同じ隙間が、赤ヘルとタオルの下になかったとは僕には言えない。その空白に音楽が入り込んできたことに変わりはないであろうから。

そう、やはり老いたということなのであろう。様々な「あのころ」がどんどん蘇り、若い自分を経て幼い自分にまで帰っていくと同時に、なにも変わっていないと強く思う自分が、「いま」に「危機感」を抱かせる。人は成長などせず、歴史はない。歴史と不可分な「作品」が、これも総じて虚しくなってくる。そんなもの、とりあえずピリオドを打って、「作品の不在」に戻るだけではないか。いったいいつになったら、「音楽は空中に消える」とドルフィーのように「言える」のか。そのことを「作品」にできるのか。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】山ではじめて、足がもつれて転んだ。右半身全部を小川に突っ込み、耳から出血。情けない。