市田良彦と鈴木創士が φonon サイトを介してお手紙のやりとり?
互いの試論と随感が絡み合い偶成する(であろう)無数の誤謬と変異。
二人はなにを感じて記すのか。デュアル・スパイラル往復書簡……連載はじまる!
騒音書簡 1-2
親愛なる市田君
君の言うように「最初の一文はむつかしい」。それどころか、それを書いた後、振り返ると最初の一文は透明になっている。消えている。「最初の一文」としてそれを書いたのか確信が持てない。セロニアス・モンクの天才的な「びっこリズム」、あのノイズのようにはかっこよくできない。俺の場合、最初に画した文章全体の構想はほとんどズタズタになってしまう。「最初の一文」は「よそ」からやってくるからだ。君が言うように、書く場合だけでなく、演奏もそれに似ている。
フォノンの小磯幸恵から市田良彦と往復書簡をやれと言われたとき、君と議論を戦わせる光景が頭をよぎった。君は哲学者だから、哲学者と戦うのも悪くないと思ったが、今更の感もある(でも今がピカピカのサラになるかもな)。さっきまでアルトーの「アンドレ・ブルトンへの手紙」の翻訳ゲラを見直していたけど、アルトーのようにはとてもじゃないがやれない。つまり我々の「騒音書簡」は往復書簡でありながら、「最初の一文」にとどまり続けるかもしれない。これは漠然とした不安だろうか。佐藤薫がそれを画策したのか。ともあれ、ノイズは音楽になるのかという問い自体が無駄になるわけだ。あえてそう言っておきたい。俺は偽の古典主義者なんだ。
ところで、「空耳を潰す」という妙な言葉があるが、それはわざと聞こえないふりをすることらしい。EP-4の復活ライブ、二度目の代官山 Unit だったと思うが、リハの途中で佐藤薫がある録音を聞かせて俺にこう言った、「何分何秒目のこの音出して!」。イヤホンで何回か聴いた。えっ、聞こえないけど! 空耳をつぶしているわけじゃなかった。人間の耳はある数値の周波帯しか聞き取ることができないが、その範囲はイルカや鯨よりも狭い。しかしそういう問題ではない。ある低音(高音?)の音だけがどうしても聞き取れないのだ。耳鳴りのせいで耳が壊れたのか。爆音で片耳が聞こえなくなる人がいるが、それならわかりやすい。鼓膜が破れたのだろう。しかし俺の場合は、他の音は聞き取ることができるので、周波帯に極小の穴があいたとしか考えられない。それは音の穴なのか。これだってさまよえる「最初の一文」ではないか。
地球上には完全に無音の空間はないし、それを経験することはできない。物音ひとつしない夜の砂漠にいても自分の血が流れる音や心臓の鼓動が聞こえるからだ。生きている身体は音に満ちていて、完璧な静寂は身体の向こうにしかない。生命はうっとうしいだけでなく、騒々しい。だが鳥の囀りを聞いて、どうして自分が静寂のなかにいると感じるのだろう。完璧なかたちは無理でも、日常生活でも断片的な無音を聞いているということがあるのかもしれない。
音楽のテクスチャーにも幾つも穴があいているが、俺たちはいつも耳の穴から漏れる無音を聞くともなく聞いているに違いない。つまり書かれていない「最初の一文」を。君が言うように、現在を構成しかけのアスペクトは「ある」と「ない」のノイズ=無音からなっている。そうはいっても、ジョン・ケージ論者たちが言うように、たぶん「沈黙を聴く」とかそういうことではない。澄ました顔であの類いのことを言われるとイライラする。音には穴があり、音はその穴と対になっている。間断なく続く耳鳴りも、ノイズも、この穴を通って外に漏れ出ているのかもしれない。穴があることによる音と無音。君の言う「陥没地帯」だ。あるいは欠落による音楽的持続と沈黙。シュトックハウゼンならそこに音楽の構造と時間の問題を持ち出すのだろうが、たぶん的はずれだと思う。
それにしてもパンク時代の君のプロフィール写真は笑えるね。若者やな。
鈴木創士

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社) 他、翻訳監修など
【Monologue】二つの近隣の工事騒音。あと一年は続く
騒音書簡 2-2
So-siくん、
そう来たか、ジェイムズ・ジョイスか。ノイズ・ミュージックはさしあたり『フィネガンズ・ウェイク』の「ような」ものか。最後までそうであるかはさておき。前々から小説家としてのきみにいつか聞いてみたいと思っていたことがあった。いちおう文章を書く人間としてのおれには「できない」と思うことを、きみはときどきやる。小説と論文の違いの問題ではない。きみはとても論理的な文章も書くし、おれは小説のようであろうと意識して文章を書いたこともある。けれどきみはおれが自分には「できない」と自覚していることを、平気でなのか、そこになにかを賭けてなのか、すすんでやる。それが「ような」とか「ように」と書くことだ。おれはそれを意図して避けてきたように思う。
きみがそう書いているのを目にするたびに思い出す。「手術台の上でのミシンとコウモリ傘の出会いのように」。「ような」とか「ように」ときみが書いているのを見ると、オレはまだシュール・レアリストだぞ、と、きみが宣言している「ように」聞こえるんだ。アンドレ・ブルトンを引き継ぐ覚悟には敬服する。ブルトンが良い悪いではなく、自分の「作品」をどこにどう置くかをきちんと知っているということに脱帽する。おれに対し、ああおれはいつの頃からかシュール・レアリズムからも、さらに「文学」からも遠ざかろうとしてきたんだな、と思い起こさせてくることに感謝さえする。きみにも言ったことはあると思う。おれは今、ほとんどの小説が読めないんだ。入っていけない。
それは多分、「ような」/「ように」が言語以前にある──と想定される──心的経験なのか世界なのかを「隠喩」してしまうからだ。言葉はそれ自体でなにかしらの現実の隠喩なのか? それが「心の闇」であろうと、「いまどきのリアル」であろうと、「狂気」であろうと、言葉がその隠喩的表現であろうとしていると感じたとき、そんなものには興味がない、とその言葉に向かって言いたくなる。そんなもの、知ってるよ、いまさら言われなくても、と。歴史的蓄積のあるこれだけの情報社会(!)で、言葉で、それも喩えてみせる言葉でしか伝えられないものなんてあるのか。歴史を、年寄りを、なめんなよ。喩えなくていいから、情報だけくれ。
とはいえ、かく言うおれも、自分の書くものは「歌」の「よう」であってほしいと願っている。おれの文章は世界の隠喩でなくとも音楽だ! 踊りだ! と見栄を切りたい気分を、論文を書くときにも持っている。特に助詞の使い方と文末処理には「リズム」を賭けている。フランク・ザッパについて書いたときには、頭のなかでずっと彼の『黙ってギターを弾け』を流していた。CDを聴きながらではない。そんなことをすれば同調できない。おれは無音の状態でしか文章を書けない。たったいま頭のなかで流しているのは「ブラウン・シュガー」だ。もうコンサートで演奏しないというニュースを耳にしたから、おれがキースとミックの代わりに演ってやるぜ、ぐらいの心持ちでいる。
この差はなんなのだろう。きみの意見をぜひ聞かせてほしい。
「同調」と書いてしまったことに関連して、少し補足しておく。「ような」/「ように」を目にするたび、ほとんどの小説を読むたびに、おれは世界から遠ざけられた気分に陥る。隠喩は、隠喩されるものからは離れていることを前提にするからだろう。隠喩は世界との同調を妨げる。だから逆に、世界からいったん離れるために音楽に没入する時間もおれにはある。なに、ごくありきたりな効用さ。イヤホンをつければ外界から自分を一定遮断できる。そしてスピーカーから大音量でノイズミュージック──例えば先日の森田潤のライブアルバムな──を流せば、それが世界そのものになるから、つまり現実世界の隠喩たりうるほどリアルさを乗っ取ってくれるから、隠喩されたリアルな世界を一瞬忘れることができる。ああ、イランのペルセポリス神殿でクセナキスの「ペルセポリス」を聴きたかった! ベートーヴェンではもう隠喩にさえなれない。いっとき自分でマスタリングすることに凝った裸のラリーズの客録り音源も、おれにはもうだめ。いったいどうしてだろう。
市田良彦
思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など
【Monologue】この歳になって英語に苦しめられている。体がついて行かない。
連載読みもの『騒音書簡』スタート!
市田良彦と鈴木創士が φonon のサイトを介してお手紙のやりとり?
互いの試論と随感が絡み合い偶成する(であろう)無数の誤謬と変異。
二人はなにを感じて記すのか。デュアル・スパイラル往復書簡……連載はじまる!
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騒音書簡 1-1
鈴木創士 殿
創士に公開で手紙を書け、と佐藤薫から。あいつはもう最初の手紙を書いているらしい。おれはまだそれを読んでおらず、まさに今、おれからの最初の手紙を書きはじめている。レーベルのサイトを介したやり取りが、しばらく続くらしい。おれは今、いまさら鈴木に対して公開の場でなにを言えばいいのか、と途方に暮れている。まあいい、佐藤くんの掌の上でしばらく踊ってみるか。いかにも彼らしいというか、ミュージシャンにふさわしい発想だと思うので。音楽はこんなふうにしかはじまらんではないか。彼もおまえもミュージシャンなんだし、おれにもそうなれ、と言われたような気がしてちょっと嬉しい。もう40年以上前だが、ちょっとだけ歌手だったしな、おれも。
しかしおれは今やミュージシャンではないし、踊ってみるかと書いたものの、むろんダンサーでもない。おれはたんなる口舌の徒である。人前で話したり、顔の見えない人たちに向かって書くことを生業としている。そして長い間、そのことの意味をどこかから問い詰められていた気がしている。そのなかで他人から言われてもっとも嬉しかった言葉は、言葉が踊ってますね、ブルースしてますね、といった類のものだった。そのようなものでありたい、といつもどこかで意識していたのだろう。アーチストへのコンプレックス? いや違うな。音や身体による「表現」を特別視して、言葉を軽んじるような物言いには憐れみすら感じる。そんな姿勢では、自分の「作品」を「いいね!」稼ぎに貶めてしまうぞ、と。おれたち──とあえて記す──は「インフルエンサー」なのか?
創士くんよ、きみは小説家でもあるからよく知っていると思う。最初の一文はむつかしい。白紙の頁にどんな言葉を置く? なにをどう言ってもいい、そんな条件でいったいなにをどう書けというのか、と途方に暮れた経験がきっとあると思う。ステージの上でも同じだろう。最初にどの音をどう出す? 文学作品を書いたことのないおれでも、書き出しはいつもむつかしい。テーマというか、流れというか、全体として「言いたい」ことのイメージがすでにあっても、最初の一行はつねにむつかしい。世界をゼロから作るようなことを強いられるのだから。そんなことはできない相談と分かっていながら、そのようであると思い知らされた経験を胸のどこかに刻んでいる者として、「おれたち」とおれは記す。
最初のフレーズは、白い紙の上に書かれようが、無音の空間に放たれようが、現実世界においてはノイズだ。うるさくなくても騒音。まだ「意味」が分からんので。そのことを、おれは子どものころ、テレビでセロニアス・モンクを見て/聴いて思い知らされたように思う。たしか初来日のときで、佐良直美が司会をしていた。そのころのおれは、従姉妹の家で聞いた彼女のピアノとショパンのレコードにうっとりして通いはじめたピアノ教室を、あまりのスパルタに嫌気がさしてやめてしばらく経っていた。モンクのピアノは、こんな音、こんな弾き方があるのか、という衝撃だった。彼がソロで弾く「煙が目にしみる」が、おれの音楽経験を白紙に戻してしまった。まさに、ありえない! という感覚。リズムはずれているし、和音は和音なのかすらよく分からんし、なにより、手のひらがぺったんこ。指を立てろと散々矯正されてきた身としては、初心者の手の構えと指の動き。意味が分からないということ自体が意味をもって迫ってきた。ジャズというものに興味をそそられて、その後オスカー・ピーターソンのコンサートに行ったりもしたのだが、これがジャズならショパンでいいや、と思った記憶あり。
おれにクラシック・ピアノの経験がなかったら、モンクのピアノはノイズには聞こえなかったろう。はじまりのフレーズは「私」の経験を、経験したことの「ある」と「ない」がすれ違う陥没地帯に落とし込む。この手紙もそうだ。佐藤薫を含み、おれたちがすでにおれたちでなかったら、こんな企画は成立しなかった。けれども、いわゆる「素地」がすでにあったから、おれはまたしても、「いまさら」という白い紙の前に座らされている。はじまりはむつかしい、とはじめに言っておきたかった。文法学者なら「時制(テンス)」と呼ぶシステムの一つとしての「現在」の手前で、その「現在」を構成するはずの色々な「アスペクト(局面)」が行き交っている。『騒音書簡』ははじまり「つつある」、「まもなく」はじまる、「すでに」はじまっている、「やがて」過去になる。とすればこの陥没地帯にこそグルーヴはある。ということでこれがはじまり、第1回の手紙だよ。
市田良彦
思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など
【Monologue】あと1年で退職だが早くも登校拒否気味。