騒音書簡2-35

2025年1月30日

市やん

市やんと書いてみたら、何十年も前になくなった市場を思い出した。熱々のコロッケのある肉屋、そこの娘は同級生だった。布団屋、愛想のいい夫婦がやっていて、主人のほうが長生きした。魚屋、おとなしい息子がいたが、黒縁の眼鏡をかけた親父は威勢がよかった。それから貸本屋。極彩色絵入りのカバーのついた漫画が主だった。そこで借りるか、お好み焼き屋に置いてある漫画だけを読んだ。水木しげるの『墓場鬼太郎』や楳図かずおがあった。市場の裏にはたこ焼きも売る清潔な駄菓子屋があったが、昔を懐かしんでいるわけではないし、そんな話はもういいだろう。

君の前葉に触発されてクセナキスの『ペルセポリス』を聞きながらこれを書いている。僕も今でもクセナキスを聞くことがあるよ。『ペルセポリス』を最初に聞いたときは、あたりまえにノイズ的動機の印象が前面にあったが、いま聞くとそうではないね。君が言うように、これには構造ではなく、「構成」がある。微妙に揺れ動く全体。上昇も下降もない。断続的な奥行き。ところどころ音質というか音域が変わるところは絶妙のタイミングだ。ノイズ的な高音だけでなく、低音もやばい。だがよく聞いてみると、いわゆる主たる中間音がとらえられない。中間音とは物語の単なる装丁かもしれない。ペルセポリスだからというわけでは必ずしもないが、この中間を欠いた、ということは中間だけからなるとも言える「構成」全体には、なるほど「古い」、とても古い時間が流れている。この点でも上昇も下降もないが、音の厚みによる時間のたゆたいのようなものはあるかもしれない。古代遺跡の奥行き。全てが埋もれてしまったか、地上に見えるのは形骸だけ。時間の残骸が見える。そこに立つと時間は横にしか流れない。我々にまで続いているらしいこの時間を寸断することはできないし、現代的なリミックス的介入の余地はない。そこでは「ペルシア人の都市」と「都市を破壊する」が完全に一致してしまう。僕はカール・クラウスやギー・ドゥボールをわりと読んだほうだろうが、蛇足ながら、これを聞きながら思いついたことを言えば、彼らの主題のひとつもそれだと言えないこともない。「心理地理学」は自身のなかで都市を壊してつくりかえてしまうことでもある。ウィーンとパリは古代ギリシアやペルシャの都市の風貌を帯びはじめる。人間はいながらにしてすでに消えている。人間的なものが無駄だったことがわかる。心理地理学の「心理」は別の非心理的漂流の動機を形成するし、そう言ってよければ、彼らがそれを革命的思想に結びつけたかったことは理解できる。そんなわけで、クセナキスは僕を飽きさせない。君と同じように、今の僕にとって、環境音楽を聞くと、退屈だし「時間の無駄」に感じてしまう。一番悪い意味で、時間の喪失だ。クセナキスに環境音楽的なところはない。それがないのは、バッハ、ヴェーベルン、そしてヴァレーズ、クセナキス……。

バッハの「構成」はどうだろう。その点で近いのはクセナキスというより、むしろヴェーベルンだ。たとえ十二音であっても対位法のようなものが僕には聞こえる。まあ、ヴェーベルンはここではいいとして、バッハにおいては、非常に厳密に作り出されているのは、「構成」ではなく、「構造」であるように思える。ミサや声楽曲には、元のテクストがあるのだから、意味としては「構成」らしきものがあるが、カトリック的な(バッハはプロテスタントだったが、ニーチェが言うように、プロテスタント音楽というものはない)『ヨハネ』も『マタイ』の場合も、それは全体としてであって、それぞれの楽曲における、『ペルセポリス』のような音楽自体の構成ではないように思われる。では、バッハの「構造」とは何だろう。いまだによくわからない。ピタゴラス的空間を含めた、バッハ独自の「空間」があるのだろうか。神的にしろ、そうでないにしろ、そこに音楽的時間が流れることはできるのだろうか。しかしこの構造において、縦の線(縦の構造)と横の線(横の構成)は交わるように作られていながら、それぞれが独立しているし、交差はめったに起こらない。ポリフォニーなどということが言いたいのではない。森田潤の『GATHERING 100 REQUIEMS』を聞くと、モーツァルトでさえ、そんなものはもう全部ほとんど意味がないことがわかる。

君の今とつながる『ペルセポリス』。面白いことに、まさに『帝国は滅ぶ』じゃないか! だけど森田潤とのあのアルバムは、森田潤と僕が棲み分けを意識したわけではない。作曲も編集も森田潤によるものだが、僕はキーボードも弾いている。それに匿名的ラップとなった「帝国は滅ぶ」の言葉は、ああいう風になった時点で、森田自身が書いたとも言えるわけだし……。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社)他、翻訳監修など

【Monologue】年末からひどい風邪をひいていてなかなか治らないと思っていたら、ぎっくり腰になりました。

騒音書簡1-35

2025年1月30日

あのころの「S」へ、

ジョニ・ミッチェルの『ミンガス』かあ。若いころからの愛聴盤だよ。曖昧な記憶なのだが、はじめて聴いたのは、ほぼ住所不定であったころ、我々の共通の友人である「N」の部屋であったと思う。彼が買ってきたのか、僕が持っていったのかは覚えていない。ただ彼の部屋のオーディオ設備の一部は、僕がどこかから調達してきたものだったような。あのころ僕は、ジャコ・パストリアスが参加したウェザー・リポートをどうにも毛嫌いしていた(クソ「フュージョン」め!)のだが、このアルバムでのジョニ・ミッチェルのギターとの絡みには一発でやられたね。ピックを使わないフレットレスのベースがこんなに色気を演出できるものなのか、と。彼が参加したジョニ・ミッチェルのほかのアルバムは、その後いちおう聴いたけれども、軟弱ウェザー・リポートに思えた。けれども『ミンガス』は、そもそもチャールズ・ミンガスに捧げられ、インスパイアされ、彼の曲のカバーも含んでいるため、そうはなりえない。ミンガスは、僕にとってのジャズ的宇宙をすでに作っていた一人だった。なにより、『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』。それまで僕の知らなかった感情のありようを教えてくれた気がする。感情があって、その表現があるのではなく、表現が、ああこんな感情も人にはあるのか、と気づかせてくれる。思い返せば、そこからブルースへとまた入り直したような。怒りでも悲しみでも喜びでもなく、ただ溢れでるしかない中性の感情。それを言葉で記述しようとすれば、小説の一本程度は書かなくてはならないだろう。『ミンガス』はそれを「歌」によって再現した、まさにミッチェル版ミンガスだ。これは同作を数年おきぐらいには聴き続けて、いま思うこと。彼女が詞を付けて歌ったミンガスの曲 « Goodbye Pork Pie Hat »は、彼のアルバム『Mingus Ah Um』に収録されたオリジナル版より好きなくらい。僕にはミッチェル版同曲と、カーラ・ブレイが主旋律をトロンボーンに吹かせたカバー版(アルバム『Big Band Theory』収録──以前に書いたか)こそ、チャールズ・ミンガスという作家の「真実」を掴んでいる気がする。感情と表現の相互依存、同時的実現を。

その後、ミンガスの自伝(『負け犬の下で』)になにかを探そうとするほど、僕には彼は一種の謎であり続けた。ある意味、とんでもない人だ。自分の年齢もはっきり覚えていない(『ミンガス』のオープニングで、ジョニ・ミッチェルから訂正されていた──「あなた53歳でしょ!」)。フロイト好きの教養人であると同時に、人としてはクズの一面をもつ。女房に体を売らせて暮らしていた時期もあったのではなかったか(ヒモになっただけ?)。彼にセッションしないかともちかけたカーラ・ブレイは、彼から「それよりあっちでプレイしないか」とナンパされたそうだ。それが彼流の断り方。ジャズにおける流行に敏感でありながら、けっしてメインストリームには行かない。自分のライブをあくまで「ワークショップ」と呼ぶ。しかし、エリック・ドルフィーは彼のバンドに入らなければ、ハードバップからもフリージャズからもはずれた彼の音世界を作れなかったろう。ミンガスとしては、ドルフィーにオーネット・コールマンのような音を期待したらしいが、そんな音が彼のベースの深いタメのある四拍子に合うとほんとうに思っていたのだろうか。ドルフィーはミンガスからの期待とミンガスの音のあいだでさぞ苦労したに違いない。その結果、彼が晩年の自分のジャズを作ることができたとすれば、僕としてはミンガスに感謝するしかない。

「N」の部屋ではじめて『ミンガス』を聴いてからほんの少しあと、僕はまた別の友人の部屋でバルバラのライブ版『オリンピア1978』を聴かせてもらった。まったく別様にではあるものの、表現されなければ「ない」感情というものをまた教えられた気がする。フランス語を勉強しはじめてまもなくであったこともあり、歌詞カードをコピーして必死に「内容」を理解しようとした覚えがある。口ずさんで発音を真似し、勉強しているつもりでもあった。彼女の場合には、感情は「愛憎」ということになるのだろうが、それがどういうものであるか、彼女の歌を聴くまではまったく実感などできていなかった。そして、たとえば « Nantes »が教えるそれは、もう「愛」でも「憎しみ」でもない。ただそこに、歌としてある。似た感情を自分で感じてしまうときには、 « Il pleut sur Nantes »と頭のなかで反芻するのみ。アメリカン・ポップスとフレンチ・シャンソンでは、それこそ「世界」が違うはずなのに、表現と同化した感情はまさに「世界」を超える? ニューヨークとナントが「ミシン」と「こうもり傘」よろしく同じ空間に置かれる。ただし、下の「手術台」はなし。聴き手としては、歌の反芻により、自分の感情を奪われ、怒りは消え涙さえ止まる。僕はなにも感じない中性の空間に連れていかれ、そのことにむしろ笑ってしまう。〈なんだ、これは〉と。そんな効果はしかし、歌によるとはかぎらないだろう。『ミンガス』なら、なによりギターとベースの会話が、僕をどこでもないどこかへ連れていく。どんな気分も「感情=表現」の「=」により中和されてしまう。だからであるのか、ジョニ・ミッチェルの歌詞は何度聴いても聞き流してしまう。ミンガスのセリフには聞き耳を立ててしまうのに。

そう言えば、きみも「N」も、中島らもの小説の登場人物になっていたよな。あのころのきみはなにを聴いていたのであろうか。

市田良彦

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学名誉教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『フーコーの〈哲学〉 真理の政治史へ』『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(以上、岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社)、著者・編者として『The Last One〈Poésies : Les Rallizes Dénudés〉裸のラリーズ詩集』(The Last One Musique)他、共著翻訳など

【Monologue】久しぶりに東京に行く。新幹線も街も、胸焼けがする。山の見えない関東平野は落ち着かない。