OZ Daysを数年ぶりで聴いて思い出した。そういえば、これは俺が70年代末頃に、アレルギー反応を起こすぐらい嫌いになった類の音楽だった。「音」のせいではない。京大西部講堂のせいだ。水谷さんの京都時代の仲間に同志社出身の「小松ちゃん」という人がいた(故人)。同志社時代はたしか劇団を主宰していたのではなかったか。個人的な付き合いがあったわけではないのだが、彼は当時、西部講堂を代表する人格だったと言ってよく、その「小松ちゃん」が代表する西部講堂的なもの、ひいては京大と同志社の「全共闘」生き残り組の「カルチャー」ときっぱり縁を切りたい、と思ったわけ。そうなった事情はどこかで書いたことがあるし、「小松ちゃん」のせいでもなく、要するにローカルな「政治」絡みの話であるから、ここではどうでもいい。とにかく、とある事件のようなもののせいで、20代前半だった俺は、10代の頃から馴染んでいた京都ローカルのアングラ的なもの一切に嫌悪感を抱くようになった。「裸のラリーズ」はそれを「音」において、あるいは「音」により、代表していた。二回しか生で聴いたことがなかったのにな。でもOZ Daysのような音イメージとして、バンド周辺の逸話が醸すアウラとともに、はっきり記憶に刻まれている。
2005年のOFF SITEの閉店とほぼ同時期にFACTORYは同じ渋谷の中で移転をし、ベニューとしての機能が拡張されるに至りました。新しくなった場所で最初に企画したのは、当時OFF SITE とFACTORYに出入りしていて今でも何かと現場をご一緒する機会の多い大谷能生さんとの「大谷能生のフランス革命」というイベントでした。その後、あの場所でできることの選択肢は増えていった一方で、自分がやるべきだと認識していた仕事の数々がどうして段階的にできなくなっていったのか━━ということについてはよく考えます。大谷さんはたまにFACTORYで何かをしている夢を見るんだそうで「それは決まって昔のFACTORYなんだ」と言っていました。それは僕も同じなんですよね。失敗も含めて色々なことが起こった場所でした。
というのも、俺にはセロニアス・モンクが「破綻」しているとは思えんのよ。というか、前にも書いたが俺にとって「はじまり」をなすあの音を、「破綻」ではないものとして受容できるよう、俺は修行してきたのではないかと先日のライブを聞いてあらためて思ったのよ。一人であの音を出すことは難しくても、バンドならそれが可能で、それを希求する者たちの系譜が確実にあり、君たちもそこに連なろうとしているのではないか。いや、妄想的に言う。連なることを目指してほしい。« Sister Ray »のヴェルヴェッツ、 何作かのミンガス、« Les Stances à Sophie »のアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、« Last Date »のドルフィー(一曲目はモンクのカバーだ)等々、いくつものバンドが先人として頭に浮かぶ。それは俺の密かな言い方では、バンド音楽を「盆栽」にしないことに賭けてきた者たちの系譜で、君がひょっとしてノイズ・バンドなどという有難いのかそうでないのかよく分からんカテゴライズを受け入れてやろうとしている音もそこに連なるのかも──電子音を使ってな──とあの夜思った。日本にはジャズでもロックでもうまいバンドはいくらでもいる。けれどもいくらそれに感心しても、感心しているその瞬間、俺は盆栽を愛でる気分になっている自分に気づいて嫌になる。森の野生を忘れてしまったのか、と。どんなバンドの音も必ず音楽史のそれなりの総括と縮図になる。そのようにしかバンドは聴くことができない。そこに「古典主義」もその「破綻」もない、と俺には思える。盆栽か森か──比喩である。
2011年の東日本大地震や2020年からのコロナ禍等、それまで漫然とやれて来た事、常識だと思わされていた事象が否応なく揺さぶられ、認識を改めざるを得ない大きな出来事を幾つか経験し、(当然の事ではありますが) オーガナイズのやり方、その根底にあるテーマ性、そしてライヴや作品のクリエイティヴ面も少しずつしかし確実に変わり続けてきました。(私自身もだいぶ歳とりましたしね)2020年以降に「東⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯」企画名義(註3)で複数回行なったbonoboでのイベントも「新大久保アンダーグラウンドマーケット」も「게 N गो」(註1)も今迄我々が続けて来たライヴイベント企画の現時点での最新アップデート版と言えます。スマートなアップデートだった事は一度もありませんけど。
そして2020年以降、ライヴハウスやクラブにかつての様にお客さんを集めるのはかなり大変ですが、以前の様な状況にはもう戻らないだろうし、そもそも以前と同じに戻る必要もないだろうという話は我々の間でよくしますよね。過去をなぞるのではなく、むしろ何か少しでも今迄にやってこなかったアイデアや動きを積極的に導入した方が良いですから。これはライヴの集客云々の話だけではなく、2020年以降のあらゆる商業的な行為に当てはまるのではないかと思っています。
東京感電帯が今年の二月から新大久保のライブハウスEARTHDOMでゲリラ的に開催しているライブイベント名。ハングルとアルファベットとサンスクリットを組み合わせた文字列そのものが意味を生み出すことはないが、ユニバーサルに無理矢理「ゲンゴ」と発音でき、日本語話者であれば「言語」と読むことができるという仕掛けが施されている。
「読めない名前をわざわざつけたのは、コロナ禍で人と人が対面で会うことや移動が制限される中、人と社会の噛み合わなさというものがより良くない方向に進んでしまったと思わされるような出来事が規模の大小を問わずして自分の身の回りでも頻発していたからで、同じ言葉を使っているのにまるで会話が成り立たないような、そんなコミュニケーション・ブレイクダウンな状況に少しでも抵抗したいという思いがあったから。読めない文字をコピペしてググってみたところでどうしようもありませんし、そもそも意味のない言葉ですから調べようもありませんから。要するに言葉が単なる情報として処理されてしまいがちなSNSという空間から距離を置きたかった。『게 N गो』は、『entangle』『Bay City Rolaz』『stoic club』という三組のデュオ・ユニットがコアとなってスタートしましたが、新たに『Skin Job』『everest c.c.』などのユニットも加わりながら、毎回、各出演者が何か新しいことを試行錯誤しながら演奏/出演したり集まっているような、そんな場になりつつあります」(倉持)
註2:『東⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯』
「コロナ禍の一年目、東京都が最初の緊急事態宣言を発出する直前の2020年3月30日に都知事が行った〈緊急会見〉では、〈お願いベース〉としながらも〈カラオケ〉〈バー〉とともに〈“ナイト”クラブ〉や〈ライブハウス〉が〈出入りを当面自粛していただきたい〉場所として名指しされました。同年9月にbar bonoboのオーナー成さんから“こんな状況でも何かできないかな?”と持ちかけられたことがきっかけとなり、伊東さんとともに『東⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯』を名乗って企画ユニットのようなものを始めました。bonoboでは伊東、倉持、大谷能生、DJ Sobriety、Yoshitaka Shirakuraがコアメンバーとして出演するパーティーが不定期で開催されたり、伊東と倉持が毎年末に企画しているライブイベント『黒光湯』の開催を巡り議論する中、『新大久保アンダーグラウンドマーケット』のアイデアが生まれることに。自分たち的には『게 N गो』はこの動きの延長線上にある最新モデルの〈イベント〉という認識です」(倉持)