Solo, Duo, & Trio Roar

森田潤、山本精一、佐藤薫(EP-4)が盛夏の京都で邂逅。多彩な創作活動を続ける3人による実験的ライヴの試み…… オープニング・アクトには、佐藤薫がかつてプロデュースした謎のグループ、DOMMUNE出演で話題騒然の「R.N.A.Organism」が登場!

地下水脈から溶け出したEP-4とTACO。これは幻影なのか?

7/2(土) 東心斎橋CONPASS Open/18:00 START/19:00 地下水脈から溶け出したEP-4とTACO。これは幻影なのか? 1980年代初頭、混沌とした京都のクラブ・シーンから突如として現れ、ポスト・ニューウェーブ・シーンを牽引した佐藤薫を中心に『EP-4』はそこにいた。また伝説のバンド『ガセネタ』のメンバーで、あの変態雑誌『ヘブン』の編集者であった山崎春美が呼びかけた佐藤薫らとのコラボ・ユニット『TACO』もそこにいた。 その頃京都にあった『クラブ・モダーン』や東京・吉祥寺『マイナー』が巻き込んだアンダーグラウンド・ミュージック・シーンの幻影は地下水脈をふわふわと漂い、そのフォルムの変異を繰り返し現在に脈々と受け継がれている。 その伝説の「EP-4」のメンバーを中心とした「EP-4 unitP」と「TACO」の2マンが大阪で決定。「EP-4 unitP」は、鈴木創士、ユンツボタジ、佐久間コウという現存する「EP-4」のメンバーに加え、「チルドレンクーデター」のホソイヒサト、神戸を中心にプロデューサーとしても活躍する安井麻人というラインナップで関西を拠点に定期的に活動しているが、今回はそこに「EP-4」のリーダーの佐藤薫がフィーチャリングとして特別参加する。山崎春美を中心とする変幻自在な「TACO」には、今回、関西の重鎮・山本精一と東京から森田潤—–などが加わる。 40数年浮遊し続け、変異を続ける幻影の表象としてEP-4とTACOがここにいる。  

新連載『東⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯⚡️通⚡️信』スタート!

東京感電帯

東京を拠点に、アンダーグラウンド+エクスペリメンタルな表現、独立系文化の現場で協働を繰り返しているアート倉持と伊東篤宏による『東⚡️⚡️⚡️⚡️帯』が、時空を超えて行き来するフィジカルな公開ブレインストーミング、新しい「なにか」を始める試み!

   

東️⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯⚡️通⚡️信 001

東京感電帯
伊東さん 山、お疲れ様でした。 二回目の訪問にして目に写る景色の解像度がグッと上がってきた気がしますね。初訪問の際、僕はとにかく現地で見たことや起きたことの全てに圧倒されっぱなしでしたから。 鋸南町を出てアクアラインに乗り都内へ戻る道すがらだったでしょうか、僕たちが後部座席で「게 N गो」(註1) の話をしていたら、運転中のもっくんが唐突に「僕の伯父が言語学者なんですよ。小島剛一っていうんですけど」ってカットインしてきた時もかなり驚きましたけどね。そういえばもっくんの苗字、たしかに小島でした。 ところで、僕も伊東さんも、平たく言えば「表現の現場」に長らく関わってきた人間じゃないですか。これは普段からよく話していることですけど、内にあるものを外に表して人に伝えるための手段としての共通言語、そしてそのありようというものを、状況に応じながら捉え直したり作り直すということを今こそやってみたいんですよね。 最近の山通いだってその一環なわけで。 だからもっくんのあの突然の告白は、なんというかネタみたいな出来過ぎた話だなあと。えっ、このタイミングで?とは思いましたけど。 鋸南町に通い始めてから、山々がDJとなって僕たちを周囲の環境もろともミックスするロングプレイを始めたかのような、そんなワイルドな感覚がありますね。色々なことがとんとん拍子に決まっていき、切れ目がない。別にスピってるわけではありませんが、これが自然の一部になるということなのかな、とか屈託なく思えたりもして。人間が自然の大きさとその複雑さにたった一人では立ち向かえないという、当たり前のようでいて忘れがちな感覚が半ば強制的に蘇りましたね。 さて、そんなわけなので、この流れで次の「게 N गो」に佐藤薫さんと鈴木創士さんというアースパワーなお二人をお迎えするってのは、自分的にかなり胸熱な展開なんですよね。二月末に神戸で行われた佐藤さんとEP-4 unitPのライブ、実は観に行くつもりだったんです。その翌日に京都で黒パイプのライブがあったので。ところが出発の前日に陽性反応が出ちゃって結局行くことができなかったんですよね。自分のライブも二つ飛ばしてしまいました。
千葉県菜花の里、鋸南町の農家さんのびわ畑にて
と、なんの前置きもなくいきなり始めてしまいましたが、僕らがなぜφononのウェブサイト上でこんなことをし始めたのか、そして、なぜ僕たちが千葉の山へ向かったのかということを先に説明しておかなければですよね。 それはやはり、φononも出店していた東京感電帯(註2)企画の「新大久保アンダーグラウンドマーケット」(註3)でyukalyさんのブースに置かれていた鹿の頭蓋骨を見たことが一番大きなきっかけになったかなと思います。
yukalyのブースに置かれていた鹿の頭蓋骨
思い起こせば、アンダーグラウンドマーケットを始める前から僕たちが『東⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯』を名乗ってbar bonoboでやっていた企画は、日に日に増大する感染者数を尻目にしつつ、人が来ようが来まいが「音楽の畑だって耕し続けないとダメになってしまう!」という気持ちから始めたんでした。出演してくれた人も遊びに来てくれた人も、面白い人ばかりでしたね。普段は東京にいるはずのない人たちがランダムな組み合わせで集まる、そんな面白さがありました。感染対策にはとにかく気を使いましたが。今にして思えば、その頃にキャッチすることができた、意外な角度から届けられたフレッシュな感覚が今の「게 N गो」の中でも活きているように思います。
毎晩さまざまな人びとが迷い込む都会の中の秘境のようなクラブ「bar bonobo」のエントランス
そういえば、bonoboのフロントバーで僕たちがyukalyさんから聞いたばかりの鹿の話を友達にしていたら、隣で一人酒を飲んでいた男が急に「俺、モトヒコレザーって名前で革やってるんですよ」って会話に入ってきて、それがもっくんとの初対面だったんですよね。覚えてます? 彼はカットインの天才ですね。 …とまあ、今回はこの辺にしておきます。 三日後にはまた山へ行くことですし。 ビアマイクとも連絡が取れましたので、彼が今暮らしている南房総へも足を伸ばしてみましょうか。SuperDeluxe、Off Site、Uplink Factoryという、今はもう存在しない東京のベニューに関わっていた我々が房総半島で再会するのはなんだか不思議な感じがしますね。その頃の話は追ってまた! では、お返事お待ちしております。 倉持

アート倉持

アート倉持

1975年大阪生まれ。1999年より東京を拠点にライブイベントや作品展示などの企画を行っている。 漫画誌アックス(青林工藝舎)にてエッセイ『ル・デルニエ・クリの人びと』を連載中。zine『異聞新報』を不定期刊行中。 バンド『黒パイプ』でボーカルを担当。セッションユニット『OFFSEASON』や『everest c.c.』ではギターを弾く。稀にDJも行う。

出演者情報や開催日時が記載されていない『게 N गो』のウェブフライヤー
 
註1:『게 N गो』
東京感電帯が今年の二月から新大久保のライブハウスEARTHDOMでゲリラ的に開催しているライブイベント名。ハングルとアルファベットとサンスクリットを組み合わせた文字列そのものが意味を生み出すことはないが、ユニバーサルに無理矢理「ゲンゴ」と発音でき、日本語話者であれば「言語」と読むことができるという仕掛けが施されている。 「読めない名前をわざわざつけたのは、コロナ禍で人と人が対面で会うことや移動が制限される中、人と社会の噛み合わなさというものがより良くない方向に進んでしまったと思わされるような出来事が規模の大小を問わずして自分の身の回りでも頻発していたからで、同じ言葉を使っているのにまるで会話が成り立たないような、そんなコミュニケーション・ブレイクダウンな状況に少しでも抵抗したいという思いがあったから。読めない文字をコピペしてググってみたところでどうしようもありませんし、そもそも意味のない言葉ですから調べようもありませんから。要するに言葉が単なる情報として処理されてしまいがちなSNSという空間から距離を置きたかった。『게 N गो』は、『entangle』『Bay City Rolaz』『stoic club』という三組のデュオ・ユニットがコアとなってスタートしましたが、新たに『Skin Job』『everest c.c.』などのユニットも加わりながら、毎回、各出演者が何か新しいことを試行錯誤しながら演奏/出演したり集まっているような、そんな場になりつつあります」(倉持)
註2:『東⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯』
「コロナ禍の一年目、東京都が最初の緊急事態宣言を発出する直前の2020年3月30日に都知事が行った〈緊急会見〉では、〈お願いベース〉としながらも〈カラオケ〉〈バー〉とともに〈“ナイト”クラブ〉や〈ライブハウス〉が〈出入りを当面自粛していただきたい〉場所として名指しされました。同年9月にbar bonoboのオーナー成さんから“こんな状況でも何かできないかな?”と持ちかけられたことがきっかけとなり、伊東さんとともに『東⚡️京⚡️感⚡️電⚡️帯』を名乗って企画ユニットのようなものを始めました。bonoboでは伊東、倉持、大谷能生、DJ Sobriety、Yoshitaka Shirakuraがコアメンバーとして出演するパーティーが不定期で開催されたり、伊東と倉持が毎年末に企画しているライブイベント『黒光湯』の開催を巡り議論する中、『新大久保アンダーグラウンドマーケット』のアイデアが生まれることに。自分たち的には『게 N गो』はこの動きの延長線上にある最新モデルの〈イベント〉という認識です」(倉持)
註3:『新大久保アンダーグラウンドマーケット』
度重なる〈緊急事態宣言〉や〈蔓延防止等重点措置〉の発出により通常営業がままならない状況に置かれていたEARTHDOMで、2020年末から2021年末にかけて不定期開催されていたフリーマーケット。アーティストやインディペンデントなアート/文化に関わる人びとが集い、自作の商品や作品を直接お客さんと対話しながら手売りするという場だった。普段は観客が立ち入ることのできない楽屋という空間を使った展示や、機材が取り払われることにより広くなったステージ上でのワークショップなど、通常営業時のライブハウスにはなかなかフィットしないアイデアの実践も試みられていた。 「日本各地の被災地をボランティアで忙しく飛び回っているyukalyさんが、それぞれの地域で作られた加工食品と一緒に鹿の頭蓋骨も持ってきていて。聞けば、彼女は2019年秋の台風で被害の大きかった房総半島の鋸南町を訪れた際に、山間の地域に暮らす高齢の農家さんたちが直面している獣害の問題を知り、そのお手伝いをするために足を運ぶようになったと。そして、間引いた野生動物が食や革の産業には還元されることなく、そのまま山に棄てられているということも知ったという。話を聞きながら僕は、本当は殺したくないけど荒らされ放題の畑をそのままにはしておけないから仕方なくやっているような、そんなまだ見ぬ土地の事情を想像しました。と同時に、アンダーグラウンドマーケットの開催を通して模索していたこと──既存の流通システムに依存せず、作品や商品を必要としている人に届けるための方法を小さな規模であっても実践してみる──と直結するような問題が千葉の山で起こっているんだなと感じました。アート、文化、創作、表現の場のみならず、パンデミックは都市のあらゆるインフラを直撃したわけで、この問題と千葉の山で起きている“人と自然の軋轢”には何か通底するものがあるんじゃないか、たとえアートや文化に属するものであっても、“売れるものしか作ってはならない”という発想への着地を避けることができない現行の資本主義社会が取りこぼしているものとは何なのか? そのヒントが都市部ではなくその外側にあるんじゃないかという直感がはたらいて、これはもう実際に現地へ足を運んでみるしかない!……と」(倉持)
新大久保アンダーグラウンドマーケット
EARTHDOMで行われていた『新大久保アンダーグラウンドマーケット』の様子。

>>>新着イベント情報!

게 N गो 日時:2022年5月28日(土) open 17:00 / start 17:30 料金:前売2,500円 / 当日3,000円 (共に+1Dオーダー) 会場:新大久保EARTHDOM 出演: 佐藤薫+鈴木創士 QUEER NATIONS テンテンコ Entangle (イワモーター+伊東篤宏) everest c.c. (Stardust+野本直輝) Bay City Rolaz (Kyosuke Terada+Kentaro Nagata) Skin Job (FECROMASS+SYN)

騒音書簡1-03

騒音書簡第3回
2022年5月28日

鈴木創士兄、

おかしなことになっている。佐藤薫の仕掛けがさっそく効果を発揮している。貴兄からの2通目の手紙を読みながら、そう思わずにいられなかった。我々はそれぞれのn通目の手紙をφononのサイト上ではじめて読み、それぞれのn +1通目の手紙を互いに向けて書くことになっている。往復書簡であるにもかかわらず、二人の間を行き交う「ピンポン玉」がないのである。通常の往復書簡であれば、読者は「ピンポン玉」に二人の関係の実質とその変化を読み取り、そこに第三者として割って入ることができる。感想を持つだけでも、それを口にすれば関係への立派な介入だろう。そんな変化する一つの「実質」が構成されないようにする仕掛けを、我々のプロデューサーは騒音書簡に仕込んだ。

貴兄からの1通目の手紙を読み、僕はそれへの返信を、「問い」を投げるかたちで書いた。1通目にあった「ように」ってなによ。「ように」ってどういうことよ。それを問うことが返信としての僕の2通目の手紙だった。たった今、貴兄はもうその問いに対する返答を書いているはずだ。今日は貴兄のライブ本番の日だから、書き終えた手紙を一足先にもうサイト管理者に送っているかもしれない(今日は5月28日で原稿の締切は月末)。とにかく僕はまだその返答を読んでいない。ところが僕のすでに読んでいる/読んだ上でこの3通目を書かなくてはいけない貴兄からの手紙には、またしても、僕の目には肝心と見える箇所に「ように」とある。「アルトーのようにはとてもじゃないがやれない」。普段なら分かった気になってそのまま先に読み進めたろうこの一文に、僕の目は釘付けになる。前の手紙で「ように」ってなによ、と質問していたから。この「アルトーのように」ってどういうことよ、と僕はあらためて問わざるをえない。貴兄からの3通目、そこに答えが書いてあるはずの手紙を読まずに、僕は僕の3通目を書かなくてはいけない。貴兄の2通目は貴兄自身の1通目に僕のなかで送り返され、僕は自分の2通目に対する自分の反応込みで貴兄への3通目を書かなくてはいけない。僕にとって「ように」はまたなのだ。

フィードバックとはこういうことか。裸のラリーズを思い出さずにはいられない。前に進むことと後ろに帰ることを執拗に交差させる水谷孝のギターを。やりすぎの残響と異なる拍子の共存で、前に進みながら後ろに帰ることをこちらに強制する彼のいくつか(?)の曲を。それらは、この音はずっと昔から響いていたと思わせるほど、こちらを前に連れ戻す。いつはじまったか、いつ終わるか、という問いを無効にする。最近のEP-4の演奏(unit-Pではない)もその点では同じだ。

「アルトーのようにはとてもじゃないがやれない」と書いたすぐ後に、貴兄は続けた。「つまり、我々の騒音書簡は(…)『最初の一文』にとどまり続けるかもしれない」。この「つまり」に対し、僕は今、騒音書簡の仕掛けにより違和感を持たされている。つまり、我々の「はじまり」がフィードバック効果によりもう消されてしまった、いや「最初の一文」なんか実はない、と感じている。「アルトーのように」がどういうことかはさておき、貴兄の書く「つまり」から判断される「アルトーのように」我々は現にやっているではないか、むしろ「アルトーのよう」であるよう強いられているではないか、と。僕の「つまり」と貴兄の「つまり」はこの瞬間、反対を向いている。我々の間に一つのピンポン玉がない(二つある?)ゆえの事態だろう。

「きみは哲学者だから」と貴兄は言ってくれたが、その規定を受け入れるには僕は「哲学」に対し皮肉すぎる感情を抱いている。そんなもの、もう終わっているではないか。哲学はもう実在していない。ひょっとすると実在したことがなかったかもしれない、とさえ思っている。これはもちろん、他人の受け売りなのだが、僕はその他人──ミシェル・フーコーという──の診断に深く同意する。同意して、彼のように「言われたこと」を「記述する」ことだけをしていたいと思っている。「言われたこと」は「出された音」であってもいい。つまり、と貴兄にならって言えば、「言われた」内容、なにが「言われた」かにはあまり興味がなく(それは言った本人に聞け)、「言われたこと」/「出された音」を「物」扱いして、「物」としての効果を再現してみたい、と。2通目の手紙ではその効果が、「ように」ってなに?と問うことであり、この3通目では、手紙という二つの「物」の「間」──これも「物」の一つだろう──を「記述」してみたいと思った。

市田良彦

 

市田 良彦(いちだ よしひこ)

思想史家(社会思想史)、作家、翻訳家、神戸大学教授──著書『闘争の思考』、『アルチュセール ある連結の哲学』、『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(以上、平凡社)、『ルイ・アルチュセール 行方不明者の哲学』(岩波書店)、『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(新版・白水社) 他、共著翻訳など

【Monologue】重信房子の釈放会見を見る。あなたまで謝罪するのか。せんといかんのか。してどうなるというのか。せめてカメラの外でお願いしたかった。

騒音書簡 1-02

騒音書簡
2022年4月29日

親愛なる市田君

君の言うように「最初の一文はむつかしい」。それどころか、それを書いた後、振り返ると最初の一文は透明になっている。消えている。「最初の一文」としてそれを書いたのか確信が持てない。セロニアス・モンクの天才的な「びっこリズム」、あのノイズのようにはかっこよくできない。俺の場合、最初に画した文章全体の構想はほとんどズタズタになってしまう。「最初の一文」は「よそ」からやってくるからだ。君が言うように、書く場合だけでなく、演奏もそれに似ている。 フォノンの小磯幸恵から市田良彦と往復書簡をやれと言われたとき、君と議論を戦わせる光景が頭をよぎった。君は哲学者だから、哲学者と戦うのも悪くないと思ったが、今更の感もある(でも今がピカピカのサラになるかもな)。さっきまでアルトーの「アンドレ・ブルトンへの手紙」の翻訳ゲラを見直していたけど、アルトーのようにはとてもじゃないがやれない。つまり我々の「騒音書簡」は往復書簡でありながら、「最初の一文」にとどまり続けるかもしれない。これは漠然とした不安だろうか。佐藤薫がそれを画策したのか。ともあれ、ノイズは音楽になるのかという問い自体が無駄になるわけだ。あえてそう言っておきたい。俺は偽の古典主義者なんだ。 ところで、「空耳を潰す」という妙な言葉があるが、それはわざと聞こえないふりをすることらしい。EP-4の復活ライブ、二度目の代官山 Unit だったと思うが、リハの途中で佐藤薫がある録音を聞かせて俺にこう言った、「何分何秒目のこの音出して!」。イヤホンで何回か聴いた。えっ、聞こえないけど! 空耳をつぶしているわけじゃなかった。人間の耳はある数値の周波帯しか聞き取ることができないが、その範囲はイルカや鯨よりも狭い。しかしそういう問題ではない。ある低音(高音?)の音だけがどうしても聞き取れないのだ。耳鳴りのせいで耳が壊れたのか。爆音で片耳が聞こえなくなる人がいるが、それならわかりやすい。鼓膜が破れたのだろう。しかし俺の場合は、他の音は聞き取ることができるので、周波帯に極小の穴があいたとしか考えられない。それは音の穴なのか。これだってさまよえる「最初の一文」ではないか。 地球上には完全に無音の空間はないし、それを経験することはできない。物音ひとつしない夜の砂漠にいても自分の血が流れる音や心臓の鼓動が聞こえるからだ。生きている身体は音に満ちていて、完璧な静寂は身体の向こうにしかない。生命はうっとうしいだけでなく、騒々しい。だが鳥の囀りを聞いて、どうして自分が静寂のなかにいると感じるのだろう。完璧なかたちは無理でも、日常生活でも断片的な無音を聞いているということがあるのかもしれない。 音楽のテクスチャーにも幾つも穴があいているが、俺たちはいつも耳の穴から漏れる無音を聞くともなく聞いているに違いない。つまり書かれていない「最初の一文」を。君が言うように、現在を構成しかけのアスペクトは「ある」と「ない」のノイズ=無音からなっている。そうはいっても、ジョン・ケージ論者たちが言うように、たぶん「沈黙を聴く」とかそういうことではない。澄ました顔であの類いのことを言われるとイライラする。音には穴があり、音はその穴と対になっている。間断なく続く耳鳴りも、ノイズも、この穴を通って外に漏れ出ているのかもしれない。穴があることによる音と無音。君の言う「陥没地帯」だ。あるいは欠落による音楽的持続と沈黙。シュトックハウゼンならそこに音楽の構造と時間の問題を持ち出すのだろうが、たぶん的はずれだと思う。 それにしてもパンク時代の君のプロフィール写真は笑えるね。若者やな。

鈴木創士

鈴木創士

鈴木 創士(すずき そうし)

作家、フランス文学者、評論家、翻訳家、ミュージシャン──著書『アントナン・アルトーの帰還』(河出書房新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『離人小説集』(幻戱書房)、『うつせみ』(作品社)、『文楽徘徊』(現代思潮新社)、『連合赤軍』(編・月曜社)、『芸術破綻論』(月曜社) 他、翻訳監修など

【Monologue】二つの近隣の工事騒音。あと一年は続く